夏の歩幅

18時過ぎに退勤したら、空が夕焼けに染まっていた。電車に乗り、最寄駅を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。

もうこんなに暗いんだ、と思うと同時に、聞こえてくる虫の鳴き声が蝉ではなくなっていることに気がついて驚いた。怖い。怖すぎる。夏が終わっていく。ついこの前始まったところだったはずなのに。

 

いつだって季節に置いて行かれている。気がついたら季節が移り変わっていて、あれ?と思っているうちにまた次の季節が来る。気候にあった服を買おうと思っているうちに気候が変わっているので、いつまでもちょうどいい服を買えずにいる。

 

駅から家まで向かう途中、背の高いスーツの男性が私を追い抜いて行った。特に急いでいるふうでもなく、ただ自然に横を通り過ぎて、その背中はどんどん離れていった。

身長が違うとは言え、歩く速さがこんなに違うのか、と思った。やっぱり歩幅が違うのかしら、と思って試しに大股で歩いてみたら、ぐんぐん前に進んでおもしろかった。でもすぐに疲れて、十歩くらいでやめてしまった。

 

人によって歩く速さは違うのだから、のんびりマイペースでいいんだよ、みたいな言説があるけれど、だからと言って季節は待ってくれないじゃないか、と思う。

いくつもの季節に置いて行かれたまま、歳ばかり周りと等しく重ねて、いつの間にか取り返しのつかないところに足を踏み入れているのではないかと不安になる。

周りと歩く速さを合わせなくちゃ、と焦っているわけではなくて、季節と歩幅を合わせて歩きたいと願っているだけなのだ。桜を見て、花火を見て、紅葉を見て、雪を見て、やったことやできたことを自分なりに数えて生きていきたいだけなのに、それさえも覚束ないような気がする。

 

自分のペースで歩いていけばいいのだ、と思っているのではなくて、自分のペースで歩くことしかできないからそうしているだけなのだ。それでいいんだよ、と説いてくれる人は多分たくさんいるけれど、それでいいと思う他に折り合いをつける術がなく、肯定と諦めの狭間を落とし所にしているだけなのだ。

 

季節が変わることを実感するたびに、お椀のかたちにした手のひらの指の隙間から水がこぼれ落ちてゆくイメージが頭をよぎる。

手のひらに残ったもので生きていくしかないのなら、残ったものを大事にしないといけないなと思う。

でも、夏にできたことを数えるには、今年はまだ暑すぎるかも。それより先に、秋にやりたいことを考えるのがいいかもしれない。とりあえず、月見バーガーが食べたいな。

押されなかったスイッチ

ドラマを見ていたら「人生におけるスイッチ」の話が出てきて、私にとってのスイッチはなんだったのだろうと考えた。

スイッチとは簡単に言うときっかけのことで、どんな些細なスイッチだとしても、押されることで人生が大なり小なり変化する。例えば、「とってもおいしいドーナツを食べてからドーナツが大好きになった!」というのなら、「あのときドーナツを食べた」ということが一つのスイッチだった、ということになる。ドーナツを食べることを選び、スイッチは押された。そのスイッチはドーナツ大好き人生の始まりのスイッチだったのだ!と、そういうかんじだ。

 

押されたスイッチについては、いろいろと思い浮かぶ。受験や就職といった大きなものから、小さな買い物や会話など些細なものまで。

だけど、押されなかったスイッチについて考えるのは、少し難しい。あえて押さなかったスイッチにも覚えはあるけれど、スイッチがあることにさえ気づかなかったことだって、きっとたくさんあった。

あれは人生や自分自身を変えるスイッチだったんじゃないか、と後になって思い返すことは、後悔に似ている。押されなかったスイッチは、もう押すことはできないから。

もし時間が巻き戻って、今そのスイッチが目の前にあったとしても、私はきっと押せないだろうな、と思うスイッチもある。それは後悔にさえなり得なくて、ただどうしようもない過去として、今の私の一部になっている。

 

***

 

ずっと保健室のことが苦手だ。嫌な思い出があるわけではない。ただ、あの部屋に自分はいてはいけないような気がして、できるだけ行かないようにしていた。

あのとき保健室に行っていれば、もしくは誰か大人に相談ができていれば、私の何かは少しは違っていたのではないかとぼんやりと思う。押されなかったスイッチは、押した場合の結果がわからずじまいだから、何もかもが曖昧なものだけれど。

でも、思うのだ。多分あそこにはスイッチがあって、私はそれに気づかなかった。もしくは、気づこうとしなかった。そして、例え今あそこに巻き戻ったとしても、私はあのスイッチを押せない。

 

高校二年生の初夏、身体が変になった。

のんきな私は、「いや〜今年の夏バテはすごいな〜」と思っていた。

毎日のようにフローリングで気絶しては明け方に目覚めるのを繰り返していたことや、体育の準備運動の時点で死にかけになっていたこと、少し動いただけで動悸がしていたこと、多分ぜんぶおかしかったのに、私はそれを自分の体力のなさと怠慢のせいだと思っていた。

常に手が震えていたけれど、すべての人の手がこれくらい震えているものだと本気で思っていた。後になって、人の手は普通そんなに震えないと知ってびっくりした。つまり、だいぶポンコツだった。

 

病気が発覚したのは別件で病院に行ったときで、ついでに軽い気持ちで手の震えを診てもらったら、甲状腺の腫れと高血圧と頻脈で大学病院送りにされた。ええ?と思いながら検査を受け、「甲状腺機能亢進症だね〜」と言われ、ええ?と首をかしげるしかなかった。

自覚症状を聞かれても、言われてみればまあ少しは……というくらいだった。今思えば明らかに体調は悪かったのだけれど、あの時は自分で自分のことがよくわからなかった。なんで自分はここにいるんだろう、と思っていた。学校にも普通に通えているし、全然大丈夫なのにな〜と。

 

甲状腺機能亢進症というのは、甲状腺がものすごくやる気いっぱいになってしまう病気で、普通に過ごしているだけで全力疾走してるくらいの体力が削れていくらしい。

そんな状態で体育の授業についていけるはずもなかったのだけれど、頑張ればどうにかなっていたのでそのまま参加していた。できるなら参加しないと駄目なんだと思っていた。

病院の先生に、さすがに水泳は危ないから休もうねと言われて、水泳の単位だけレポートで取った。なんだか私だけずるをしているような気分になった。

 

甲状腺の狂った人間にとって、夏は過酷だ。

夏休み、部活の教室はクーラーが壊れていてずっと暑くて、そのうえ立ち作業も多かったので、行くたびに何度も目の前を真っ白にして、ああ真っ白だなあ~と思っていた。水の中にいるみたいに耳が遠くなって、目の前が白くなって、汗が噴き出して、でも意識が飛ばないように耐えればどうにかできてしまったから、大丈夫だと思っていた。耐えられずに倒れたら普通に危ないし迷惑なので、家にいた方がよかったのだろうけど、学校や部活を休むという選択肢が私にはなかった。

 

治療が少し進んでいくと、薬の効き過ぎで一日十回くらい身体のどこかが攣るという意味のわからない状態になった。

ちょっと身じろぎした程度で身体が攣る人間が、体育の馬跳びなんてしていいわけがないのに、意味もなく満身創痍でやっていた。一度歴史のテスト中にお腹のあたりが攣って、ほんとうにどうしようかと思った。

どう考えても身体がおかしくなっているのだから、病院の先生に相談するべきだったのだろうけど、薬がちゃんと効いてるってことだろうしなあ〜と思って誰にも言わなかった。結果、身体が攣るのに異様に慣れた高校生が生まれた。

 

もしかしてあのとき私は、大人に助けられるべき子どもだったんじゃないだろうか。

保健室の扉を開ければ、少しくらい助けてもらえたんじゃないか。無理をしないという選択肢をもらえたんじゃないか。

そうすれば、目の前を真っ白にしたまま立ち続けることも、体育で死にそうになることも、授業中に眠ってしまって数学の先生に頭を叩かれることもなかったかもしれない。起きていられずに勉強がわからなくなっていくのも、自分の責任だと思わずに済んだかもしれない。

 

だけどあのときは、誰かに助けてもらおうだなんて選択肢、思いつかなかった。助けてほしいとも思わなかった。助かりたいとも思わなかった。

ただ、自分は大丈夫なのだと思っていた。心配されるほどのことでも、気を遣われるほどのことでもなくて、ぜんぶ自分で処理できることの範囲内だと思っていた。実際それはほとんどその通りになってしまって、だからこそたちが悪かった。

 

大人になった私は、あの保健室の扉を開けることがスイッチであることを知っている。だけど、その上で今あのときに戻ったとしても、スイッチを押すことはできないと思う。

なぜなら私は、あのスイッチを押さずにここまで来てしまった人間だからだ。

制服姿で内分泌科の待合室の椅子に座って、私はどうしてここにいるんだろうと思っていたときから、何も変わっていない。保健室は自分がいてはいけない場所のように感じる。自分は誰も助けられないし優しくできないのに、誰かに助けられに行ったり優しくされに行くのは筋違いだと感じる。人に優しくされるのが、いつまでも少し怖い。

 

高校生の頃の夏を思い出すと、耳鳴りと共に白く染まっていく廊下とか、水泳のレポートを提出しに行った体育教官室とか、起きていられなくて全く埋まっていない歴史のプリントとか、数学の先生に頭を叩かれたこととか、ろくでもないことばかり思い出して嫌になる。

私はいつまでも、あのときの私を助けてあげられない。ただ押されなかったスイッチの存在を知っているだけだ。

遠い花火

肉じゃがを作って、いただきますと手を合わせたら、窓の外でどん、と低い大きな音がした。
突然雷が落ちたのか、はたまた私がいただきますをしたがために何かが爆発したのかと思ったけれど、どん、どんと続けて響くその音と、外から聞こえた「わあ〜」という誰かの歓声で気がついた。打ち上げ花火だ。

ベランダから外を覗くと、向かいのマンションの向こう側に花火が見えた。建物が邪魔でたぶん三分の一くらいしか見えていなかったけれど、遠くても結構よく見えた。次々と上がる色とりどりの花火。きれいだった。

晩ごはんが冷めてしまうので、花火を見るのは少しで切り上げて、早々に部屋に戻った。食べている間もずっと、どん、どんという音が遠くで響いていた。
食べ終わったあと、もう一度外をのぞいてみたら、まだ花火は上がっていた。花火というものは結構長い時間上がるものなのだなと、この歳になって今更知った。

花火を見に行っている人たちは、次々と上がり続ける花火をずっと眺めているのだろうか。晩ごはんを優先するような私には、それがなんだか不思議に思えた。これはやっぱり、誰かと一緒に見たほうが楽しい、という部類のものなのだろうか。よくわからないな、と思った。よくわからないということは、寂しいことなのだろうか。それもよくわからない。ただ、花火って遠いなあと思った。

窓を閉めてツイッターを開いたら、地元にいる友達が線香花火の動画を上げていた。
ぱちぱちと火の燃える音、遠くにいる友達の笑い声。外でまた、どん、と大きな花火の音がした。クーラーの風が静かに聞こえて、癖で膝を抱えれば、触れた自分の肌はひんやりとしていた。お皿洗わなきゃなあ、と思いながら目を閉じた。夏が過ぎていく。

原宿マジック

二、三年前に買ったブラウスをおろした。

セーラー襟にレースがついた白いブラウス。可愛いけれど、可愛すぎる気がして着ていなかった。着ないまま人生を終えるような気がしていた。

 

その日はフォロワーと原宿で会う約束をしていた。もともと違う服を着ていくつもりだったけれど、引き出しを開けたらそのブラウスが見えたので、せっかくだし着ていくか、という気になった。

 

竹下通りは、私と遠い場所だった。物理的な距離の話ではなくて、私という人間と原宿という場所の性質に重なり合うところがない、という意味で遠かった。

竹下通りは活気があって、みんな思い思いの服を着ていて、思い思いのものを食べていた。ブラウスにレースの襟がついていようと、何てことはなかった。どちらかというと、強風で襟がめくれてときどき顔を攻撃されることと、トートバッグを肩にかけたら襟がぐちゃぐちゃになることの方が問題だった。

 

竹下通りにいると、ある意味、お寺やお城に観光に来たときのような気分になった。自分はここのことを何も知らない。地理も、文化も、人間も。この場所に馴染むことはできないのだろうな、という余所者感と、新鮮な場所にわくわくする気持ちが両方あった。

いつもはショッピングモールに入っている服屋さんくらいにしか行かないので、原宿にある服屋さんは、なんだかとても特別に感じた。待ち合わせに便利そうなリアルなコアラのTシャツとか、うっかり人を蹴ったら殺人罪になりそうな厚底の靴とか、やたら陰影の濃いクマのぬいぐるみ柄のシャツとか、金魚と臓器の柄(??)のチャイナ風の服とか、目新しいものがとにかくたくさんあった。会社に着ていけない服のパレードだった。

一緒にいたフォロワーは綺麗でお洒落な人で、試着した服はぜんぶ似合っていた。チャイナってそんな似合うことあるんだ……と思った。まぶしかった。

 

竹下通りをひと通り回り終えた後、いちばん最初に見たお店にもう一度寄らせてもらった。手に取ったのは、丈の長い黒いスカート。布が多めで、広げるとたぶん半円くらいになる。裾に大きいフリルがついているのと、後ろの方の丈が少し長くなっているのが可愛かった。

試着してみて、やっぱり私には可愛すぎるかな、と思った。服は可愛いけど、私が着るのはなんだか謎な気がする。私が可愛くないからだとか、そういう自虐的な気持ちというよりかは、これは私とは縁遠いものなのではないかなと首を傾げるような気持ちだった。言うなれば、知らない国の民族衣装を着たときのような気持ち。

でもスカートは可愛いし、着られる着られないで言えばギリギリのラインだ。今着ているブラウスが着られるなら着られるんじゃないか、みたいな、そんなライン。黒だしまあ大丈夫じゃないか……? 買ってみようかな……? フォロワーも可愛いって言ってくれてるし……などと思っていると、「ちょっと着てみて~」とフォロワーがワンピースを手渡してくれた。きっと可愛いから、買わなくてもいいから着てみて~、と。

黒いワンピース。袖のところが、あれは何て言うんだろうか、シースルー?になっていた。スカートの裾のところも、何と説明したらいいのかわからないが、とにかくこう、一部分がシースルーになっていた。短めのスカートの上から長めのシースルーの生地が重なっているような……かんじのやつ。シースルーもわからない人間には説明が難しい。とにかく、原宿っぽい可愛らしい夏のワンピースだった。

 

着てみた。びっくりした。それは漫画とかでときどきある「えっ、これが私……?!」みたいなドラマチックなそれではなくて、「人生でこういうお洋服着ることなんてないと思っていたのに……?!」みたいな、なんだかよくわからない驚きだった。こういう服は、「かわいいな~」とは思えど、「着たい!」「着よう!」とは思わない人生だった。テレビの向こうのアイドルを見て「かわいいな~」と思うのと同じことだ。私とは交わることのない、別世界のものだと思っていたから、憧れさえ抱いてこなかった。

原宿の可愛いワンピースを着た私は、とんでもなく目新しかった。異世界転生したかと思った。人生で初めて着た系統の服だったから、突然現実とフィクションが混在して鏡の中に現れたような、不思議な気持ちになった。ひとしきり動揺した。シースルーの服は、びっくりするほど落ち着かなかった。フォロワーは可愛いねと褒めてくれた。嬉しかった。

 

勢いで買っても我に返ったときに絶対に着なくなる、と思ったので、ワンピースはそっと店員さんに返した。このブラウスでさえ箪笥の中で眠っていたくらいなのだから、着ただけで動揺が走る可愛いワンピースなど、同じ道を辿ってしまうに決まっている。日の目を見ないのは、服がかわいそうだ。

でも、最初に着たスカートは買うことにした。休日なら着られると思ったし、何より、買い物をするのが楽しくて浮かれていたから。

 

竹下通りを歩いて服屋さんを巡ったのも、スカートを選んだのも、私にとっては新鮮でどきどきした。初対面の綺麗なお姉さん(フォロワー)と一緒だったから、余計に。

ワンピースを試着したのも、すごく良い経験をしたなと思う。今でもなんだか、ふわふわとした不思議な気持ちになる。原宿って、すごい。

 

たぶん、今回買ったスカートを着る度に、この日のことを思い出すのだと思う。

次の休日も遊びに行く予定があるので、新しいスカートを着ていこうかなと思っている。

このスカートを着ていろんなところに遊びに行って、楽しい思い出を増やしていけば、原宿での思い出も、この可愛いスカートのことも、ずっと大事にできるような気がする。

理と情と私

感情が理にかなっていないな、と思うことがときどきある。論理的に考えてそんなわけがない、とわかっているのに、「思ってしまう」ことをやめられない。

例えば、会社の先輩が優しくしてくれたときや褒めてくれたとき。感情としては「申し訳ない」が降ってくる。もちろん、申し訳なく思う必要性は全く無いし、申し訳ないと思ってほしいとは先輩も思っていないだろう。それはわかっている。わかっているのに、思ってしまう。

 

まず、「理」の話をする。

先輩が私に優しくしてくれたり褒めてくれる理由として考えられるのは、①後輩育成の一環、仕事としてそう接してくれている、②先輩がとても良い人だから本当にそう感じて言ってくれている……くらいだろうか。

多分、①も②も両方間違っていないと思う。そして、この二つの理由について、私が「申し訳ない」と感じる要素は一つもない。

 

次に、「情」の話をする。

この感情の起因は、「忙しいのに気を遣わせてしまった」とか、「私みたいな人間が優しくされてはいけない」とか、そういうところにある。

私は自分のことをどうしようもない駄目な人間だと思っているところがあり、それが如実に出ている気がする。たぶん、そんなことは思わなくてもいい。思わなくてもいいとわかっているが、「思わないようにする」ということはとても難しい。

 

「情」をぐるぐるとかき回していると、「理」の方がツッコミを入れてくる。つまり、「心が二つある~」みたいなことになる。

「生きていて申し訳ないな……」と思っている「情」の自分はいつも、「理」の自分に「何をそんなこと思う必要があるねん!」と言われている。ふたつの自分は全然相容れず、相互不理解のままである。

 

 

話は変わるが、性格心理学の16タイプ診断というものがある。

私はINFJだった。つまり、Introverted(内向的)、iNtuitive(直感的)、Feeler(感情優位)、Judging(秩序)だ。IとJが86%とかなり偏っていた。

診断結果を見ると、たいていは「生きにくいです」みたいなことを言われる。そうだろうなと思う。

だって、感情優位なのに秩序で、それに内向的が覆い被さってくるのだ。つまり、論理より感情を重視する傾向があるのに、秩序立ったルールや仕組みの中で生きようとする気持ちが強く、それでいて思考の基準が「自分」なのである。

「情」の私が「F:感情優位」の私で、「理」の私が「J:秩序」の私なのかな、と考えたのだけれど、「秩序」と「理にかなっている」は少し違うような気もする。

でも、感情的には整理がつかないけれど、社会的な規範に則ってこうしなければならないのだな、みたいな気持ちにも覚えがある。これは基本的には秩序が感情を説き伏せられる。

「理」は「情」を説き伏せられないのに、「秩序」は「情」を説き伏せられるのは、その正確性や他者の感情の有無にあるのかもしれない。

「理」の方は、基本的には人間関係絡みのことだから、他者を完全に理解することはできないが故に正確性には欠ける。他者が本当にどう思っているのかは、どれだけ考えても正確な答えは出ない。

「秩序」の方は、身近な誰かに関わること、というよりかは、社会的な規範や決まりのようなイメージだ。「一般的にはこうである」ということだから、はっきりしていて腑に落ちやすい。

 

 

いろいろ整理してみて思ったけれど、おそらく人間関係においての認知の歪みがすごい。人間関係以外でも認知は歪みまくっているが、それにしても。

人に優しくされると、私はこんな人間なのに優しくされていいのだろうか、とか、同じものを返せないのにいつももらってばかりだ、とか思ってしまう。

優しさをもらっても同じだけのものを返せない、だから誰とも一緒にいられない。それならせめて、自分の面倒は自分で見なければならない。誰にも何も与えられない薄情者なのだから。……みたいなトンデモ論理が、私にはずっとある。

なお、トンデモ論理は他にもたくさんあり、日々自分で自分に引いている。そんなことはない、それはおかしいとわかっているのに、どうしてそういう思考になってしまうのだろうか。

 

認知の歪みとか、コミュニケーションについて勉強してみるべきかもしれない。人と過ごすより一人でいる方がずっと気楽で、一人で生きていきたいと思ってしまうけれど、社会で生きていくためには他人と過ごすことは避けられない。社会から離れて本当の意味で一人で生きていくだけの能力は私にはないし、何よりそれは寂しく感じる。

一人が好きだし、傷ついたり疲れたりするくらいならできるだけ一人でいたいと思ってしまうけれど、人間が嫌いなわけではない。優しくしてくれる人の存在もいる。

たぶん私がすべきことは、一人になりすぎないようにすることだと思う。

一人になるのは心地よいことかもしれないけれど、社会で生きる上では破滅に繋がると思う。破滅して周りに迷惑をかけると心が死んでしまうので、自分のためにも周りのためにも、もう少し生きやすくなるよう模索したい。

貴方が大学院に行って研究者の道に進んだらどんな研究をしたのだろうと、見果てぬ夢を見てしまいますね、と。最後に会った日、先生は言った。

それは私の4年間、いや16年間を、まるごと認めてくれるような餞だった。それと同時に、ある種の呪いでもあった。

 

私が学生だったのは、小学1年生から数えて16年間。大学生だったのは、そのうち4年間。

最後、私の手の中に残ったものは、学士の学位記と卒業証明書と、おまけのように貰った賞状。それから、学会誌に投稿するために手直しした卒業論文だった。

私に院への進学を勧めたときも、私が賞状を貰ったときも、論文が学会誌に通ったときも、先生は何度も私に「立派です」と言ってくれた。最後に会った日なんて、10回くらい言ってくれた。

その度に私は、曖昧な返事しかできなかった。私はどうしたってそんなことを言ってもらえるような人間ではなく、おそらく今後もきっと、その言葉の価値に追いつけることはないのだから。

 

私は決して地頭が良い方ではないし、学問に誠実なわけでもなかった。

ただ「勉強のできるちゃんとした人間」でありたかっただけの、能力も意思も足りない凡庸な学生でしかなかった。

昔から学校の勉強のことを、「やらなければならないこと」だと思っていた。やらなければいけないことだから、やらなければいけない。それだけの論理だった。朝起きたら顔を洗わなければならないように、学校に行くときは制服を着なければならないように、学生だから勉強をしなければならない。ただそう思っていた。

勉強というものは、比較的努力が結果に直結しやすい。暗記教科なんて特にそうで、テスト範囲を隅々まで覚える努力をすればそれなりの成績が取れる。

成績が良ければ、大人からは優等生で安心だと言ってもらえた。でも、褒められても嬉しいという感情はあまりなかった。ただ安心した。ああ私は大丈夫なんだ、と思えた。

テストの点数、学年での順位、通知表の数字、模試の結果、志望校の判定、そういったものが自分の努力にかなっているのを確認する度に、いつも安心していた。それが心の支えになっていた。大丈夫。努力は無駄になっていない。誰にも心配なんてされない。不安には思われない。まともでいられる、と。そう思っていた。

それは多分、こう在りたい、という願望と、駄目になりたくない、駄目だと思われたくないという、切実な思いだった。高校3年生、大学受験の時には、なんだか少し頭が変になっていた。もし未来で報われなければ、それは今この瞬間の頑張りが足りていないせいなのだと思っていた。報われない方に分岐した未来の自分から、ずっとナイフを突きつけられていた。それは多分、一種の強迫観念だった。受験する全ての大学に落ちたら死ぬのだと思っていた。

私はおそらく、自分自身に対する諦めが良い人間だ。だからこそ、自分に対してあまり期待していない。私は人よりできないのだから、人並みになるために、まともになるために頑張らなければ。そう思う度に、いつのまにかどこか行きすぎている。つまり、要領が悪い。

 

勉強には励むくせに、学びたい学問は特になかった。なりたいものも特になかった。社会人になった今だって、そうだ。

もしかしたら勉強とは、何か目的を持ってやるべきものなのかもしれない。大学に受からなければ、という目の前のゴールではなくて、この学問を学びたいだとか、この職業に就きたいだとか、人生でこんなことに関わりたいだとか、そういう目的を持ってやるべきものなのかもしれない。

そのことにはとっくに気づいていたけれど、気づいていたからといって、目的が見つかるものでもなかった。私は家からの近さと学費の安さで大学を選び、受験科目と就職率とほんの少しの興味で学部を選び、自分の性に合う合わないで学科とゼミを選び、「やりたいこと」以外の観点から職種と就職先を選んだ。

それが悪いことだとは思わない。後悔しているわけでもない。ただ、大学院への進学を選ぶには、学問に対して不誠実だと思った。

「勉強」は向いていても、「学問」は向いていない。「学生」にはなれても、「研究者」にはなれない。私はきっと、そういう人間だ。

 

大学の授業はほとんどちゃんと出ていたし、院への進学を勧めてもらえるくらいにはまともな成績を取っていた。卒業論文だって真面目に書いた。あまり人気のない、人の少ないゼミに所属していたけれど、そのぶん課題や卒業論文を先生にしっかり見てもらえた。ゼミの活動は楽しかった。

ただ、学んでいることがそれを極めようと思えるほど学びたい学問だったかというと、きっとそうではなかった。ただ目の前にあるものに取り組んでいるだけに過ぎなかった。そこに深い知的好奇心とか、強い意欲があるわけではなかった。ただ、大学生として、ゼミ生としてやらなければならないことをしているだけだった。

卒業論文だって、本当は粗だらけだった。私にもっと意欲があれば、もっときちんとしたものが書けたはずだ。先生の勧めで学会誌に載せてもらったけれど、本当は少し怖かった。こんなものが誰かの論文の参考文献にされたとしても責任は取れないのに、と。今でもそう思っている。

論文の中身は、すごくざっくりと言うととある社会問題について書いたのだけれど、それもどこか引っかかっていた。問題について調べているくせに、問題を解決したいという意識があるわけではなかったから。

勝手にいろいろと調べて、偉そうに見解を述べて、それでおしまい。その問題は問題として顕在化しているからこそ論文の題材になっているのに、私はそれを、単位を取るために利用しているだけのように思えた。

わかっている。学生なんて大抵そんなものだ。それが悪いなんてことは、きっとない。だけどやっぱり、無責任だと思った。

 

大学院に興味が無かったわけではない。行こうかなと少しも思わなかったわけではない。親に反対されたわけでもない。

ただ、いろんなものが足りていなかった。学費のこと、進学後の進路のこと、院の受験のこと、そのすべてへの覚悟や意志。学問をしたいという意欲、研究したい対象、やりたいこと。きっと足りていなかった。

自分なりにたくさん考えて、たくさん向き合った結果、自分が足りていない人間であるということに打ちのめされてしまった。

まだ学生でいたい、社会に出るのが怖いというモラトリアムや、先生に勧められて嬉しいと感じていることを、大学院へ行くことの理由にしてはいけないと思った。それはきっと、誰に対しても失礼なことだから。

 

貴方が大学院に行って研究者の道に進んだらどんな研究をしたのだろうと、見果てぬ夢を見てしまいますね。

大学の先生に、学問を職とする教授に、そんなことを言ってもらえる人生じゃなかった。その言葉に見合う人間じゃなかった。不誠実で無責任な、どこにでもいるひとりの学生でしかなかった。

成績が良くたって、真面目に励んでいるように見えたって、学問を修める道を進む聡明さや意欲があるわけではなかった。足りないものだらけだった。背伸びばかりして、数字だけ並べて、生きることへの安心材料にしていた。

先生が望んでくれた私でなくてごめんなさい、なんて、言えるはずもなかった。大学院に行く未来を選ばなかったのは私の意志だし、何より、私がそんなことを思うことを先生は望んでいなかっただろうから。

 

あの言葉はきっと、祝福の言葉だった。大学から去って、学生ではなくなる私への餞だった。それはよく理解しているつもりだ。

だから私は、その言葉を受け取って、きちんと箱に仕舞っている。その箱の中に、罪悪感や自責の念や失望が一緒に詰め込まれていることを、いつか許せる日が来たらいいなと思う。

二十五回目の春

いつかこんな日に死にたいな、と思いながら、昨日買った誕生日ケーキを食べた。

 

今日から社会人二年目になる。昨日は、一年間社会人を頑張れたことを祝うためにケーキを買って帰った。誕生日はまだ少し先なのだけれど、面倒だから一緒に買ってしまえば良いか、と誕生日ケーキも同時に買ってしまった。自分のためにケーキを二つ買うのは初めてだった。

今日は昼頃に起きて、洗濯とごはんを済ませてから、散歩に出かけた。外に出よう、と思って外に出たのは、とても久しぶりのことだった。

桜はもう葉桜になっていた。去年引っ越してきたこの街は、春になると花がたくさん咲く。都会で綺麗な花がたくさん咲くのは、整備をしている誰かがいる証拠だ。有り難いことだな、と思う。こんな引きこもりでも、少し外に出るだけでお花見ができてしまうのだから。

ときどき花の写真を撮ったりしながらしばらく歩いて、ドラッグストアで日用品を買い込んでから帰路についた。いつもは仕事のパソコンだとか食料品の買い物袋だとかを持っているから、こんな時でないと重たい物は買いづらいのだ。お会計が四千円を超えていて、少しぎょっとした。買いすぎたかもしれない。どうせいつかは全部消費するのだし、無駄な買い物ではないから良いのだけれど。

帰り道、眠たくなるようなあたたかい空気に身を包まれながら、やっぱり死ぬなら春がいいなあ、と思った。あたたかくて、穏やかで、花が綺麗で。いつかこういう日に、すべてを終わりにしたい。各々の道に進むみんなを見送って、だけどわたしはここでおしまい。おつかれさま、さようなら、おやすみなさい。死ぬならそれがいいなと思う。それに、葬儀というものは寒くても暑くても大変だろうから、そういう意味でもちょうどいい気がする。

買った物を片付けたあと、ケーキを冷蔵庫から出してきて、ケーキをのせるには少し大きすぎるお皿にのせ、ゆっくりとそれを食べた。背の高いいちごのケーキは、やさしい甘さでおいしかった。

 

春は漠然とした希死念慮が強くなる。だけど別に、わたしのそれはそんなに深刻なものではない。うすぼんやりとした希死念慮というものは、たぶんそれなりに多くの人が抱えているもので、「もう死ぬしかない」という絶望というよりも、「ぜんぶおしまいにしたら楽だろうなあ」というゆるい破滅衝動とか、「死ぬならこんな日がいいなあ」というふんわりとした願望の方に寄っている。

はっきりとした自殺願望とはまた違う。ただ、いつか必ず訪れる死のことが恋しくなる。これから先で起こるすべてのことが不安でたまらなくなる。あたたかくて、まぶしくて、ここにいていいのかわからなくなる。また春を迎えてしまったことがどうしようもなく受け入れられなくて、現実をぜんぶ突き放したくなる。

 

あと数日で、わたしはひとつ歳をとる。今年で二十四になる。春を過ごすのは、二十五回目。

もうどうしようもなく、言い訳のしようもないほどに大人の年齢になってしまった。二十二歳あたりから、歳を取るのが恐ろしくなった。若く在りたいというわけではない。ただ、年齢に見合うような人間にはなれていないような気がして、年齢を重ねれば重ねるほどに何もかも取り返しがつかなくなっているような気がして、ひたすら不安な気持ちになる。

 

だけど、短い春の真ん中にある自分の誕生日のことは、いつまでも嫌いになれないでいる。あたたかくて、穏やかで、やさしい季節。やっぱりいつかこんな日に死にたいんだよなあ、と思いながら、歳を重ねて、春を受け入れて、生活は続いていく。